計画地の歴史
Rising Eastプロジェクトの計画地、墨田区業平橋・押上地区は、江戸時代の初期には、隅田川を国境に下総国に帰属し、葦の生い茂る湿地帯に農地が散在する「江戸」の郊外でした。1657年の振袖火事(明暦の大火)の後、干拓により隅田川以東の市街化が進み、武家屋敷が移設され、やがて町屋も建ち並び、1713 年には代官、町奉行も置かれました。国境は現在の県境の江戸川に移り、この地域は武蔵野国の一部となりました。
明治期に入って、この地区は本所区小梅瓦町と呼ばれるようになりましたが、この地域では瓦の生産が盛んだったためと言われております。こうしたことから、この付近には多くの職人が住み、様々なものづくりの伝統が育まれてきました。この地域での東武の歴史は、1902年(明治35年)4月1日に、東武伊勢崎線を北千住から延伸し、「吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)」を開業したことに始まります。
1904年には亀戸線(曳舟~亀戸間)の開通により一時廃止されましたが、その後、1908年に貨物駅として再開業し、1910年には「浅草駅」と改称して旅客駅としても再開業しました。当時、鉄道で業平橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)に運び込まれた貨物は、ここで舟運に積みかえられ、北十間川から隅田川、中川を通って、広く全国に運び出されていました。1911年(明治44年)には、東武鉄道の本社がこの地、本所区小梅瓦町(現墨田区押上1-1-2)に移転し、東武鉄道の中心拠点としての役割を果たしてきました。
その後、1931年(昭和6年)に現在の浅草駅が開業し、「業平橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)」に改称されるまでの間、東武伊勢崎線の旅客ターミナルとして使われ、以降1993年(平成5年)に貨物取扱いが廃止されるまで物流ターミナルとしての機能を長く果たしてきました。「業平橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)」は、開業以来1世紀余り、人と物資が集散し、文化と産業の往来する結節点として歴史的な役割を果たしてきたのです。